【評伝】『ゆめはるか吉屋信子』田辺聖子~5日目
今日は「潮みちて」の章である。ゆきえさんの件であるが、やはり信子が愛想をつかして別れることになった。そりゃあそうだろう、稼がなきゃいけない、なんて言われたら男でも女でもゲンナリする。
この章でついに、あの門馬千代が登場する。千代は信子が亡くなるまで同居するパートナーである。信子に千代を紹介したのは、なんと山高しげり! 山高しげりって誰よ、という方も多いだろうが、フェミニズムの闘士で政治家(参議院を二期務めた)である。山高が信子に対して、「刎頚の友」として紹介したのが千代だった。山高は、後に信子と千代が女性同士で交際していることに違和感があった旨述べているが、それは仕方ない。フェミニズムと百合がマリアージュしないことのほうが通常なのだから。たまにマリアージュするが。
私、『ゆめはるか吉屋信子』は再読なのだが、前に読んだときには「吉屋信子が羨ましい」という印象が強かった。で、今回もやっぱりそう思う。考えてみてください、頭が良くて冷静で、しかも尽くしてくれる、さらにちゃんと仕事もしてる病んでない彼女なんてどこにいますか?! ビアン界にいる人間なら分かってもらえると思うが、特別天然記念物みたいな存在である。だいたいはその逆…おバカですぐカッとして、仕事はしてないか低収入で、メンヘラである(こっちはいっぱいいる)。もちろん、私の知らないところに「まともなビアン(バイ)」が生息しているのだろうとは思う。が、こっちに回ってくるのは…ゲフンゲフン。
なので、我こそはまともなビアン(バイでも可)である、という方は、是非とも私ユンボイナとお友達になっていただきたい。チキンだからブログのコメント欄は閉じてあるが、Twitterはあるのでそちらから是非!
と、思わず出会い厨してしまったが、そのくらい信子が千代という生涯の伴侶を得たことは非常に羨ましいことである。千代は早くにお父さんを亡くしてお母さんと兄弟を大塚の実家で養わなければならないというハードな環境ではあったが、最終的にはうまいこと信子が稼いで家を建て(途中、羽仁吉一に借金している。羽仁夫妻といえば婦人の友と自由学園!)、東京での同居という夢が叶う。
しかし、吉屋信子には文才があるとはいえ、運がいい。書いた小説は次々採用されてバンバン印税が入ってくるし、彼女には恵まれるし、公私共に絶好調である。途中で関東大震災なんかあって心細い思いはしただろうが、全体的にみて恵まれた人生だったのではないか(まあ、今読んでいるのは30代前半までのところだが、前に最後まで読んだ記憶では特に大きな不幸はなかった)。前世でどんな徳を積んだらこんな人生になるのか。
なお、関東大震災のことだけでなく、甘粕事件なんかも触れられているし(信子は大杉栄と卓球したことがあるらしい)、徳富蘇峰は信子に間違えて「ふるやさん」と呼びかけたりもするし、与謝野鉄幹・晶子夫妻なんかも出てくるし…日本史や日本文学史の観点からも面白い内容となっている。おせいさん、相当これを書くのに調べてると思う。すごいな。惜しい人を亡くしたもんだ。
【評伝】『ゆめはるか吉屋信子』田辺聖子~4日目
さてさて、今日は昨日読み残した「東京漂泊」の章を読み終えた。信子がYWCAの寮に入って、屋根裏部屋を与えられる。隣室には菊池ゆきえという女子英学塾(今の津田塾)の学生が住んでいるのだな。これ、すなわち吉屋信子の私小説的作品『屋根裏の二処女』の舞台裏である。
ゆきえの部屋は2人の書斎に、信子の部屋は2人の寝室にして、寮で同棲を始める2人なのだった…が、ゆきえさん、メンヘラだった(事実、今では聞かないような診断名が登場する)。ゆきえの実家が札幌で、信子の兄は池田町(地図で見ると帯広の近くだ)だということで、信子は兄を尋ねるという口実で北海道に行くことを夢見る。そして、それはゆきえが(心の)病気療養のために実家に一時帰省した後に叶った。
が、当時信子は大変忙しかったのである。まず、連載中の『花物語』は書かなきゃいけない。それに、ゆきえが勧めた、大阪朝日新聞への応募作(長編小説)も書かなくてはいけない…せっかく北海道に行ったにもかかわらず、ゆきえに構う暇はあまりなく、兄宅で執筆に励む日々だった。
そんなところに、ゆきえちゃんからガンガン手紙が届く。返事を書かなくても届く。もちろん返事の催促もあるし、札幌へ来いとも書いてある。これは大変だ。
まあ、好きな人になかなか会えないので寂しい、構って欲しいというのはよく分かる。しかし、仮に当時今みたいにスマホが普及していて、LINEみたいなアプリがあったとしたら、信子はどうなっていただろうか? 多分、毎日のように通話を迫られて小説どころでは無かっただろう。『花物語』ももっと作品数が少なかったかもしれない。大阪朝日新聞への応募もできなかったかもしれない。
いや、その前に…もっと早くにゆきえのことが嫌になっていたかもしれないな。うん、LINEがなくてよかった、よかった。
LINEがなくても、ゆきえのこのような手紙攻撃に対して、信子はおそらく(おそらく、というのは、信子の手紙が残っていなくて、おせいさんの推理によるものだからである)このような手紙を出す。
「あなたの愛って、いったい何なんですか」
愛って何。一度言ってみたいセリフである。とりあえず、信子の愛とゆきえの愛の質が違うのだけはよく分かる。ゆきえのは重くて激しかった。ここから2人がどうなるのかは、次の「潮みちて」に書いてあるはずなので、楽しみにしておこう。
なお、前の記事で青鞜社に触れたけれど、やっぱりおせいさんも青鞜社の、平塚らいてうと尾竹紅吉のスキャンダルについて書いてあった。やっぱり、百合の歴史を語る上でブルーストッキングは外せないものだった。知り合いのフェミニズムの若い(若いといってもアラフォーだが)センセ(センセと言っても学校の先生ではなく、センセと呼ばれる職業の人)に是非教えてあげたいが、うまくスルーされるのが目に見えるので教えない。ここを読んだあなたは、仮に「日本のフェミニズムとレズビアンの関係について論ぜよ」という試験問題が出ても(絶対出ないけど)、慌てずに済むわけだ。よかった、よかった。
【評伝】『ゆめはるか吉屋信子』田辺聖子~3日目
さて、今日は3章目の東京漂泊を読んだ…が、この章は他の二倍くらいの長さがあるので読みきれていない。とにかく信子が四谷の寮に入ったあたりで疲れてしまった。
内容は、信子が栃木から上京する前後から始まっている。栃木高女を卒業した彼女はしばらく地元のお裁縫の学校に通っていたが、そんなもんが楽しいわけがなく、兄の伝手で上京することになる。下宿先は三男の忠明の下宿。
上京後は竹久夢二(別の兄が画家だった関係で会うことに!)に会ってガッカリしてみたり、中村武羅夫の紹介で生田春月・花世夫妻の家に行ったら岡本かの子が来て励まされたり、結構楽しそうである。地方出身者にとって、今も昔も東京は刺激が多くて楽しいところ。そりゃ、ちょっとやそっとのことで田舎になんか帰りたくない。
そうこうしているうちに、あの『花物語』の連載が始まる。初めてのファンレターなんかももらったが、恥ずかしくて返事が書けなかったそうである(ちょっと可愛い)。もっとも、『花物語』以前にも出版社へ原稿を送って採用された作品があるので、『花物語』が処女作というわけではないが…ファンレター、嬉しかっただろうね。
ちなみに、吉屋信子が女性が好きな理由について、男兄弟ばかりだったので「女性的な感じへの憧憬」があったということである。分かる。私は一人っ子だけど、オッサンばかりの職場に長いこといてみなさい、「女性的な感じへの憧憬」で胸がいっぱいになる。その辺は我々(ついに吉屋信子を仲間にしてしまった)同性愛・両性愛の者だけじゃないと思う。
そんな信子が『花物語』の連載中に、三歳年下の天才少女が現れ、『貧しき人々の群れ』で衝撃デビューする。中條(のちの宮本)百合子である。プロレタリア文学の大御所の名前をここで見るとは思わなかったが…とにかくこの作品を目の当たりにして、信子は「わたしゃ少女小説みたいなヘナヘナしたもんしか書けないよ」(意訳)と凹んでしまう。私なんか、焼肉と寿司くらいにジャンルが違うんだから気にしなきゃいいじゃないかと思うのだけれど、信子はそうではなかったらしい。
結局、同じ下宿にいた兄が東京帝大を卒業してしまい、信子は栃木に帰らなきゃいけなくなる…のだが、そう簡単に帰れるはずもなく、保母になるという口実で四谷のバプテスト女子学寮に入り、保母養成所へ通うことにするのだった。今日はここまで。
ここまで『ゆめはるか吉屋信子』を読んで思ったが、かなり作品の引用が多く、吉屋信子作品を読んだことのない人でもそこそこ楽しめるようになっている。だから、『花物語』を読む前に『ゆめはるか吉屋信子』を読んだほうがいいかもしれない。まあ分量がものすごいからそっちでギブアップするかもしれんが、地の文はおせいさんの文である、大変読みやすい。
あと、吉屋信子に影響を与えた人、実際に会った人として、有名作家がたくさん出てきて、ああ吉屋信子も今の日本文学を創った一人なのだなあと実感させられる。しかし、日本文学の中に初めて百合をぶっこんだのが吉屋信子である。実に素晴らしい。
【評伝】『ゆめはるか吉屋信子』田辺聖子~2日目
17年前の今日はナンシー関が亡くなった日であった…私は彼女の生前からそこそこ彼女の本を読んでいたのだけれど、すっかり忘れていた。『信仰の現場』はかなりオススメで、誰がファンでもないのにわざわざ矢沢永吉やウィーン少年合唱団のコンサートへ行ってルポを書くものか。わざわざ大陸横断ウルトラクイズに応募・出場したというのも面白い。
というわけで、本当はおせいさんどころではない気分なのだが、私がナンシー関の話を始めると長い上に、そもそも全く百合とは無関係になってしまうのでやめておく。
今日は、2番目の章、紫の矢絣・海老茶の袴を読んだ。
この章では、吉屋信子の4年間の栃木高女時代が記されている。ところどころ、信子の生活を語る上で『花物語』の文章が引用されていて、『花物語』を読んだばかりの私としてはデジャブ感があるが…あの小説群(のうちの学園もの)は実際の信子の経験を元にしているということか。まあ、そうじゃないとなかなか書けないだろうし、逆に個人の体験と完全に切り離して書くのも困難だろう。
『花物語』以外にも、信子の個人雑誌『黒薔薇』掲載の小説からの引用もある。一つ得た知識としては、信子は自分をモデルにした登場人物については、「章子」という名前を与えているということである。そういえば『屋根裏の二処女』の主人公も章子だ(まだ読んだことないけど)。なるほど、割と私小説的なものも残しているのだなあ。
ちなみにこの章、実際に信子が愛読した作家・作品の名前も挙がっている。巖谷小波、小杉天外、木下尚江、泉鏡花、徳富蘆花、樋口一葉、谷崎潤一郎…かなり幅が広そうである。どうやって調べたのかな、おせいさん。まあ、吉屋信子本人がどこかに書いてあったのだろうけど。
しかし、とりあえずこの章を読めば、吉屋信子大先生による少女小説の原点はよく分かる。ひとつには、当時の良妻賢母教育への反発(新渡戸稲造が栃木高女に来て講演をした際に、良妻賢母教育より前に人としての教育を、というようなことを新渡戸が言ったので、信子はいたく感激したという)。もうひとつは、女性性への渇望(なんせ吉屋家は上に兄が4人いるのである。自宅は相当ガサツな空間だったであろう)。前者は一言で言えばフェミニズムだし、後者は…。やはり百合とフェミニズムは相性が良い、というか姉妹のようなものなのだ。百合好きもフェミニズムの先生方も認めたがらないだろうけど。
【評伝】『ゆめはるか吉屋信子』田辺聖子~1日目
昨日の予告通り、これからしばらく田辺聖子による吉屋信子の評伝、『ゆめはるか吉屋信子』を日数をかけて読んでいこうと思う。
こうなるともはや百合小説とか百合漫画とか関係なくなってくるわけだが、おせいさんが先日なくなったこともあり、何となくこの本を再読しろと言われているような気がしたのである。
まあ、吉屋信子の生涯を見ていくことで、何か作品の謎がとけるかもしれないし(とけないかもしれないが)。
さて、『ゆめはるか吉屋信子』の章立ては以下の通りになっている(番号は便宜上私がつけた)。
【上巻】
1 鬱金桜
2 紫の矢絣・海老茶の袴
3 東京漂白
4 潮みちて
5 パリの夢
【下巻】
6 嵐の薔薇
7 戦塵
8 冬木立
9 春晝
10 面影つかのま
11 年の湯の湯気に消えゆく月日かな
ちなみに1章ずつが結構長く、夜ちょこちょこと本を読むだけの私にはきつい。なので、ブログは1章ずつ書く予定だが、途中サボったりして長くかかるかもしれない。
で、今日は1の鬱金桜である。おせいさんは吉屋信子の評伝を始めるにあたって、いきなりビジュアル問題から斬りこんでいる。つまり、「吉屋信子は醜女だという人がある。」という一文から始まっている。試しにスマホで吉屋信子の画像を検索してみたが…「普通じゃないかなあ?」という印象である。確かに客観的に美人とはいえないけれど、ブサイクではない。
しかし、吉屋信子は生涯、容姿についてあれこれ言われることが多かったというのだ。おせいさんは嫉妬だとか、女だからとか色々書いておって、それもあるだろうけど、まあ容姿をあれこれ言うのは男だろうなあと思う。今なら、女性は言わないだろう。別に芸能人じゃないし、作家だし。
容姿の話から入って掴みはOKのところに、おせいさんは吉屋信子の両親のルーツをサラッとワンクッション入れて、今度はヘビーな足尾鉱毒事件をぶち込むのである。すごいな、おい。
なぜ吉屋信子に足尾鉱毒事件が関係あるのかというと、父親の吉屋雄一が、この足尾鉱毒事件に役人として絡んでいるからである。もちろん、吉屋信子自身とは直接関係ない話ではあるが、谷中村の抵抗やその後の悲惨な状況について、おせいさんはこれでもか、これでもかと書く。非常に興味深く、足尾鉱毒事件の概要についてよく分かるのだが…あれ、これ、何の本だっけ?
足尾鉱毒事件の話の後は、信子と文学との出会い、そして栃木高女への入学についてまたサラッと書いてある。鬱金桜は高等女学校入学のときに咲いていた花。
うーん、おせいさん、足尾鉱毒事件のおさらいができたよ。ありがとう。
【古典百合】『花物語』吉屋信子~7日目
田辺聖子さんがお亡くなりになった。正直なところ、田辺聖子の小説は未読であり、私にとっては『ゆめはるか吉屋信子』という評伝の著者であった…次はこの本かね。再読するか、タイミング的に…また長い本だ、トホホ。
で、花物語の下巻だが、今日読んだのは…
16 玫瑰の花
17 睡蓮
18 心の花
19 曼珠沙華
この4作品である(番号は例によって私が便宜上ふったもの)。
16の玫瑰の花は舞台が北海道。好きな人が家族と船でどこかに密航してしまったという話。
17の睡蓮は二人の少女絵描きの話で、片方が賞に入選して、もう片方が落選したもんだから嫉妬してしまって大変なことになる話であった…ちょっと胸糞悪い。
18の心の花は文語体で読みづらいけれど、要は家族に疎まれていた少女が修道女になって救われたという話であった。こちらは本当に救いのある結末でホッとする。
最後の曼珠沙華は、曼珠沙華(彼岸花)の毒で死んじゃった話。いくら有毒だからといって、曼珠沙華の咲いている中で寝てるだけで死ぬのかどうか謎ではあるが。
ちょっと今日読んだ話はパンチが足りないな。
で、上下巻を通じて、「これはいい!」と思ったのは、
上巻→21 白百合、30 燃ゆる花
下巻→10 ヒヤシンス、14 桐の花
くらいかな。上巻の9の忘れな草と10のあやめも良い。分厚い百合カタログではあるが、美文に我慢しつつ読めば、何か得ることがあるかもしれない。得ることがなくても私は責任はとらないが。
なお、一つ吉屋信子大先生の作品で分かったことだが、必ずしも主人公やメインの登場人物が美形であるとは限らないのである。心の花なんかは、まさしく家族に疎まれるレベルの醜女(だってさ、あまり綺麗じゃなくても家族には可愛いって言われるよ、普通)が主人公である。まあ、この話は百合作品かと言われたら百合ではないけど。他にも客観的には美形じゃないだろうなあという登場人物が時々現れて、ときには恋におちる。
漫画だと、どうしても恋愛ドラマを繰り広げるのは、美男美女になってしまって、「平凡な見た目」なんて注釈がついていても絵柄は可愛かったりする。
が、小説には醜女でも恋愛ドラマの主人公となれるだけの包容力がある。そして、吉屋信子大先生はそのことを生かして、不美人にもスポットライトを当てる。この点は素晴らしいと思う。現実世界において、恋愛しているのは美女ばかりではないのだから。